2006-01-14

大学を卒業して、およそ4年。そろそろ大学時代にがんばっていたボランティア活動に関して書いてみようと思います。[volunteer]カテゴリを新規作成。

大学在学中に、私は複数のボランティアサークルに所属し、沢山のボランティア活動に参加しました。そこで色々なことを学びました。今にして思えば、仕事よりもきついことも多々ありました。

その中で学んだこと、考えたことをこれからちょくちょく書き記していこうかと思います。時間がたてば昔の失恋を笑って話ができるように、4年もたてば笑って話ができる気がするので。

いくつか衝撃的な価値観の変化を与えるようなこともありました。一番最初に衝撃的だったのは、「100%いいことだと考えていたことが、実はそうではないこともある」ということに気がついたことです。

ボランティア活動は「いいこと」だとされています。実際に活動を行っている人も「いいことをした。」「人の役にたてた。」「社会の役にたてた。」そう思っている人が大半だと思います。

でも、色々活動をしていくと、それだけではないことに気がつくのです。

たとえば施設に行って子供に勉強を教える。子供は喜ぶでしょう。でも、中にはありがた迷惑な人もいるかもしれません。施設の職員さんも勉強を教えてもらってありがたいと思うでしょう。でも、ボランティアを受け入れるために余計な仕事が増えているかもしれません。子供が興奮してしまって、ボランティアさんが帰った後が大変かもしれません。

たとえば障害を持つ方に対してレクリエーション活動を行う。受け入れるための準備がいるでしょう。中にはボランティア活動として参加してくる人に悪意を持った人がいるかもしれないから監視する必要もあるでしょう。

特に「人の役にたちたい」と思った際には必ず人との関連が出てきますから、100%純粋に「良い」ことではすまないのは仕方が無いのかもしれません。

また、施設でボランティアを受け入れるような体制の場合には「ボランティアを受け入れる」ということが施設の評価ポイントになるという事情もあります。施設の評価基準に「ボランティアを受け入れているか」という項目があるわけです。そうすると、本来の目的は施設の利用者へのサービスの向上であるはずのところが、施設の評価を上げるために・・・というように目的が食い違ってしまうことが往々にしてあります。

ボランティアに参加する側にしても、はじめは「人のために」「(施設の)利用者のために」と思っていたところが、「施設の職員さんにとっては・・・」「ボランティアのほかの参加者にとっては・・・」と複数の視点を持ってしまうことにもつながります。

さらには考え方の違いから派閥のようなものもほぼ間違いなくできてきます。

人が複数人集まるところでは仕方が無いことなのかもしれません。でも、本当に純粋に「良いことがしたい」と考えている人たちが、世間一般では「良いこと」だとされていることをする、その中にさえ見方を変えれば「迷惑」「打算」「対立」の要素が含まれてしまうのです。本人にその気が100%なかったとしても。

だから私は、誰が何をしたとしても全員が賛同し、100%肯定されるということはありえないのではないかと思っています。逆に、誰がどんなに酷いこともしても全員が否定し、100%否定されるということもありえないのではないかと思っています。あまり希望の無い話かもしれないけれども。

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