100%善意から出た行動だからといって好意的に受け止められるとは限らない…ということを深く実感したのは大学生時代にボランティア活動をしていた時のこと。良かれと思ってしていることが、その人の迷惑になる(ことが結構ある)、という現実を知った時にはかなりショックだった。
でも、その時にはボランティア活動をしている側の人間の善意はまず留保なく認められている、という前提条件があったように思う。「ボランティア活動」という名前がそういう意味である、ということもあるし、それを望んで受け入れているという受け入れ側の入り口の段階でのコミットメントがあったからかなと、今振り返ってみてそう思う。
問題は「意思の善意は伝わっている、結果が伴わないケースがある」ということだった。
でも、そういうところを外れたところでは、そもそもの行動が善意からなのか、悪意からなのか、そのレベルでの判断をきちんとすることは非常にむずかしいように思う。たとえば「エコ製品」は環境問題に配慮するという善意をまとって、消費者をだまして製品を売りつけようという悪意を感じてしまうし、危ない宗教やマルチに熱心に勧誘する人は善意の塊のようにも思える。(結果はどうあれ)
そこでの問題は「善意からの行動が悪意からの行動としてとらえられてしまう」、あるいは「善意からの行動であるということを理解してもらえない」ということ。(だと思う。)
でも、もしかしたら、意図というのは意味を持たないのかもしれない。全てはその結果で判断されるべきでって、元々の意図の良し悪しは結果によって上書きされる、と。こういう考えかたもあると思う。
目指すところは善意をもってよい結果をもたらすことなのだけれども、これがなかなか難しいのである。まる。